日本共産党流山市議団
議員の紹介
小田桐たかし
小田桐たかし

プロフィール 

1973年6月12日生まれ 41歳 兵庫県神戸市出身
住所:流山市東初石2-81-9東初石ハイツ2-402号
市議5期目、議会運営委員会、総務常任委員会、つくばエクスプレス・新川耕地有効活用特別委員会の各委員。議会での発言階数は、昨年末で9000回、駅頭宣伝は1500回を超えました。消防団員・農業委員としても奮闘中
電話:090−8567−8858
活動区域:東初石1〜6丁目、西初石2丁目の一部〜6丁目、駒木台、青田、若葉台、美田、駒木、十太夫、上新宿、南、桐ケ谷、谷、上貝塚、大畔、市野谷

小田桐議員の活動

●ごあいさつ                              2015年5月1日

 今年4月26日の市議選挙で、当選させていただき、5期目となりました。最後の最後まで、投票先を悩まれる有権者が多くいたのではないかと思います。それだけに、いまの市政が抱える課題や解決策をもっと明確にする責任を痛感しています。また安倍内閣がしゃにむに進める、いわゆる『戦争立法』への危機感、自衛隊員をはじめ日本の若者を戦場に送りたくないという思いは、広く党派を超えて共感が広がったことを感じます。だからこそ、市政だけにとどめず、国・県、および企業にも市民の願いを届け、実現できるよう引き続き頑張ります。
 さらに、混雑が深刻化するつくばエクスプレスについては、党派・自治体の垣根を超えた大市民運動を呼びかけます。私もその一翼で頑張ります。

 これまでも、そしてこれからも、あせらず、あきず、あきらめずに力を尽くしますので、みなさんからのご意見・ご感想、ご要望をドシドシお寄せください。ちなみに、ブログの更新に少しずつ取り組んでいますので、のぞいてください。

小田桐たかし

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小田桐たかしの4期16年の足跡

 

小田桐たかし物語

南相馬から避難してこられた人々
 東日本大震災が発生した四年前。まだ寒さも残る三月、避難所となった東深井の老人福祉センターには、子どもが七人、大人が三人、畳の隅には布団が積まれてあります。 
 大地震、大津波、放射能への不安、恐怖で身体が震えます。「寝る場所と、毛布、お風呂だけなら」との流山市からの申し出に、南相馬市から「それでも有難い」と流山市に避難してこられたのです。
 住民と党市議団らが慰問すると、食事は毎食、自費。避難所には「台所の火は使わないで」「棚はいじらないで」の注意書きの張り紙…。「温かいおにぎりが食べたいよ〜」子どもの声にみんな胸が詰まりました。
 地域の方、お手伝いするお母さんの輪も広がり、小田桐さんはヨーカ堂や農家、業者に支援を依頼するなど動き出しました。
 電気釜に入ったご飯、大鍋に入ったけんちん汁、煮物もいっぱい。「ああこれで、温かいご飯を食べさせられる」と思っていたら、施設職員が「コンセントは使わないで。上からの指示なんで」と一言。みんなびっくり!!お母さんたちの温かい思いが断ち切られてしまいました。
 また、「罹災証明をお渡ししま〜す」小田桐さんが車で流しながらマイクで訴えると、婦人に呼び止められました。「新品の雑巾がたくさんあります、困っている人に届けたい。役所では『被災地にはいらない』と断られて」「ボランティアバスは市から出ないの?」と訴えられました。
 小田桐さんは、こういう声を拾い上げ、粘り強く市へ要請。避難所では夜の炊き出しを日本赤十字社が担い、電気や棚の湯飲みも利用できるようになったのです。
 新品の雑巾は、石巻市に届け、被災者を励ましました。市がボランティアバスを運行させないので、日本共産党独自に市民ボランティア隊を募り、小田桐さんを隊長に35名以上が参加しました。
 大災害の時ほど、心と心をつなぐ…この小田桐さんの姿勢は阪神大震災と全国の支援を体感したからなのでしょうか。

幼少から青年へ
 小田桐たかしさんは、1973年に神戸の市営住宅で生まれました。お父さんは日本共産党の専従職員、お母さんは町医者の事務仕事をして家計を助けていました。
 いまでも大好物なのがお母さん手作りの『いかなご』の佃煮、というより経済的な理由もあり、「おかずは何時も『いかなご』しかなかった」「そのおかげで骨折は一度もない」と笑って話します。

 毎日、朝早くから夜は最終電車で帰ってくるお父さんが、小田桐さんの高校合格発表の日に倒れました。心筋梗塞でした。半年間、生死の境をさまよいましたが、みんなの支えで回復します。
 無理がたたったお母さんも腎臓病を患い、身体障害者に。一生懸命、まじめに生きているのに、どうして?…そんな思いが広がります。
 お父さんは、病気を乗り越え、専従として定年まで勤め、その後はヘルパー、ケアマネジャーの免許を取得し、地域のお年寄りに寄り添っています。 

市議として
 阪神大震災も小田桐さんの人生を大きく変えます。全国からのボランティアと一緒に、毎日バケツで水を運んだり、がれきを片付けたり、汗を流しました。家族や家を失った青年たちから「共産党の事務所での給水で助けられた」「避難所に一番最初に届いた新聞が『赤旗』だった」との声を心に刻みました。
 希望していた神戸市内の病院が復旧できず、東葛病院にレントゲン技師として就職します。仕事は充実するものの、費用を気にして脳腫瘍検査をためらう患者さんたちの姿に胸を痛め、2000年、市議に初挑戦し、当選。市議になる前から続けてきた早朝駅頭宣伝は、16年半で1500回を超えました。
 高校の制服姿から卒業した青年の、スーツ姿での出勤もいれば、お母さんに抱かれ電車に乗り込む赤ちゃんが、いつの間にかお母さんの手を元気にひいて保育園に出かけるようになりました。
 「暑い日も寒い日も、住民の息づかい、生活感を肌で感じられる場所」と駅頭宣伝を続ける小田桐さん。『選挙の時だけ』の方とは性根が違います。

困った時は小田桐さん
 「初めての計画停電の朝、初石駅に来て切れたのは小田桐さんだけ。情報を教えてくれて助かった」「断水の時に、小田桐君だけが車で宣伝して、知らせてくれた」…大地震後、小田桐さんの活動はますます加速します。
 耐震不足の保育所や幼稚園、救急病院を次々訪問。帰宅困難者の方々の避難所を回り、市職員とも汗を流します。運休しているTXの状況を避難所に届け、崩れた瓦屋根や大谷石の塀の撤去、初めての計画停電の朝、初石駅前で困り果てた利用者への案内…フル回転です。余震で「怖い」と布団に入ることを嫌がる愛娘に添い寝している時は、慈愛溢れるお父さん。
 だからこそ、震災翌日には、災害対策本部を解散させた市長に「なぜ?市民も職員も混乱し、今後も何があるかもしれない今、なぜ解散するのか?」「これじゃあ守れない」…張り裂けそうな怒りを胸に刻みました。
 生活苦、リストラ、心の病、家族の離散、学校のいじめ、難病、福祉の様々な手続き、工事トラブル…日々寄せられる生活相談。小田桐さんは、困った時に欠かせないほんとうの議員さんです。

地域にも市にもいなくてはならない人
 小田桐さんの市議会での発言回数は、昨年末までに9688回。ダントツです。
 子どもの医療費助成の拡大、初石駅改善、国保料据え置き…地域でも全市的にも実績をあげればきりがありません。
 昨年の3月市議会。「少数精鋭」と定数削減を持ち出した議員に、「あなたは精鋭か、そうでないならあなたが辞職を」「人口減少・税収減少を理由に定数削減といいながら、一方では大きな借金をつくる体育館建替え事業や大規模事業を推進。どちらが本当なのか」と迫る小田桐さん。答弁できず、何度も休憩することに。
 またある時は、放射能による独自測定の実施、市長の方針『低減』ではなく『除染』を前提にした計画づくり、放射能汚染の焼却灰はテント保管で済まそうとする市長に迫り、コンクリートの建物内に保管させることに改善させます。…ことごとく抵抗勢力となる市長に、小田桐さんは対案を示してきました。
 一夜漬けの勉強ではありません。その言葉の裏には、実現しなければという思い入れはもちろん、たくさんの市民の不安や、苦難の実態を把握し、実現できる確信が裏付けられていることを感じとられます。議員バッヂ欲しさではここまではできません。小田桐さんの人間を大切に思う心の深さと、優しいまなざしがあるからです。
 みんなで育てた大事な議員さんです。小田桐さんにはもうひと踏ん張り働いてもらうために、みなさんで応援してくださいね。

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