日本共産党流山市議団
議員の紹介
小田桐たかし
小田桐たかし

小田桐たかし物語2007

☆ 幼時時代
 春風を受けながら、白いタスキをかけて自転車を走らせる小田桐たかしさん。
 春休みなので町には子供たちがいっぱい。東初石の住宅地で自転車をとめた小田桐さんは、いつものように少し緊張ぎみに演説を終えました。汗をかいているのは暖かいからだけではありません。近くで遊んでいた女の子が二人寄ってきました。手にはタンポポの花束。「はい、これあげる」小田桐さんは眼鏡の奥の丸い目を、もっと丸くして驚いてしまいました。「これ僕に?嬉しいなあ」小学校二年生の子でした。小田桐さんの胸の中に、じんわりと熱いものがこみ上げてきました。「しっかりせんとあかんな、子供たちのためにも絶対に当選するぞ」25歳の初めての市会議員立候補、不安や戸惑いがふっきれて、候補者としての自覚が生まれたのは、この時からです。

 小田桐たかしさんは1973年に神戸の市営住宅で生まれました。お父さんは日本共産党の専従職員です。お母さんは町の医院で医療事務の仕事をして家計を助けていました。小田桐さんが生まれた時、四つ上のお兄ちゃんは飛び上がって喜んで、嬉しさのあまり近所中に自転車で「弟ができたよー」と宣伝してまわってくれました。
 0歳保育はなかったので、おばあちゃんの協力をえながら、小田桐さんは元気に育っていきました。三歳からは保育所に入り、冬でも半袖半ズボンで走り回っていました。いつもお兄ちゃんがお迎えにきて、児童館で遊んでいました。お兄ちゃんが友達と相撲をとると「ガンバレ、お兄ちゃんガンバレ」と応援するけど、負けてしまうと悔しくて「お兄ちゃんを泣かすな」と年上の子に向かっていくほどでした。でも弱い子、小さい子には優しかったので、年上の子も小田桐さんには一目おいていました。ある時、高熱が一週間も下がらず、もうろうとした目を開けたら、枕元には近所のお兄ちゃん達が心配そうに座っていました。運動会が大好きな小田桐さん、行進の引率をしていた先生が間違った方へ歩いて行ってしまったら、大声で「ちがう、ちがう、こっちだよー」と指摘して、自分が先頭に立って大いばりで行進していったので、見ていた人達は大爆笑だったそうです。小田桐さんの得意そうな姿が見えるようですね。
 おばあちゃんは、電車で30分ほどの所に住んでいて、なにかというとすぐにかけつけてくれました。かかりつけのお医者さんが後年「君はおばあちゃんがいなかったら死んでいたよ」といわれるほど、おばあちゃんにはお世話になりましたが、小田桐さんが大学生の時に、亡くなりました。

☆ 小学校時代
 小学校にあがると、月に一度の家族会議がとても楽しみで、夜昼ない仕事のお父さんも、その日は必ずケーキを買って早く帰ってきました。話し合いは家事や学校のこと、小田桐さんの仕事はお米とぎと、お風呂掃除です。お兄ちゃんは部屋の片付け、これは二人とも責任を持ってずっとやっていました。忙しくても約束は必ず守る、家族を大事に思っていることを、小田桐さんはお父さんから学びました。経済的にはとても厳しい生活であったけれど、お母さんの作る「いかなご」の佃煮は大好きでした。というよりおかずはいつも「いかなご」しかなかったのです。
 お盆とお正月は、四人揃って祖父母の家に行き、帰りには「寅さん」をみて外食をすると、その足でお父さんは仕事に行きました。小田桐さんも赤旗日曜版を市営住宅に配るようになり、これは十二年間続きました。ささやかな配達代は大切なお小遣いになりました。小学校六年の卒業式には、音楽は全く苦手なのに、合唱会の指揮者を先生からの指名でやらせられてしまいます。しんどかったけれど、みんなと一緒に創りあげる喜びを知ることができました。

☆ 中学・高校時代
 中学生になった小田桐さんは、お兄ちゃんのやっていたバスケットボール部に入部、生徒会ではどういうわけか(本人もわからない)風紀委員長に先生から推薦されて、毎朝校門の前に立ちました。その時、小田桐さんは先生に内緒でこんなことをしていました。大変厳しい校則で男子は丸坊主でしたし、先生の点検も時々あるので、その時はツッパリの子達にそっと教えてあげました。その日はツッパリさん達も変な服装をしてこないので、風紀委員長をしていた時は、殆ど問題もおきずに、かえってツッパリさん達からも慕われていました。三年生の最後の文化祭では、生徒会による演劇があり、「すごく恥ずかしかった・・・」けれど、主役をこなしました。
 兄弟ともに大学、高校合格発表の日、一家にとって忘れられない出来事が起こりました。皆で喜んでいた時に、お父さんが心筋梗塞で倒れ、それから半年間、生死の境をさまよいました。両親が共働きでも生活が苦しかった家計では貯金などありません。医療費がなかったのが一番悲しかった、と小田桐さんはいいます。兄弟で、学校が続けられるられるのだろうかと悩んだこともありました。お母さんの必死の働きと家族や、たくさんの両親の友人達のお陰で、お父さんは回復しました。小田桐さんもラグビー部に入り、キャプテンまで努めましたが、一度も勝てませんでした。クラス委員長を三年間続け、その間アルバイトもしました。仏壇屋では、売れた仏壇を運んだり、店では説明をしたり、一生懸命に働いたので、社長に見込まれてぜひ社員になってほしいと懇願されてしまいましたが、徳島大学医療短大に推薦されて、入学がきまったので、社長も諦めてくれました。

☆ 大学時代
 大学では、先生達が「小田桐はヨシモトへ行ったほういいよ」と話すほど。学科史上初めての22科目再試験という、クラス全員の心配をも受けましたが無事に突破できました。そんなわけで国家試験に備えては、二年の時から勉強を始めました。三年の時、お兄さんの薦めで民主青年同盟に加入、社会の矛盾に目覚めていったのです。そして21歳で入党、翌年一月一七日、阪神大震災が起こり、火災のニュースが飛び込んできました。神戸の実家への電話も不通、やっと連絡がとれましたが「すぐ帰る」という小田桐さんの言葉に両親は「こっちは何とか大丈夫だから、3月22日の国家試験に最善を尽くせ」と説得されました。それから二か月小田桐さんは受験に立ち向かいました。試験の終了したその日、徳島から神戸に向かいました。幸い五階建ての市営住宅は無事で家族とも会えましたが、崩壊した市内の有り様に小田桐さんは呆然としてしまいました。何か医療活動の手助けと思ったのですが、瓦礫の中で水、電気は出ない、器材もない状態で、給食、水配りなどに寝食を忘れて、ボランテイア活動で一週間神戸にいました。その間、両親を始め共産党員の人たちの献身的にボランティア活動をする姿には深く心を打たれました。

☆ 大学から社会へ
 大学では高校と同じラグビー部に入部して青春を謳歌しましたが、成績の方は散々です。何しろ実力がいま一つなのに「国立大」へ入ってしまったのです。ある時、教員室へ入ろうとしたら、先生達の話が聞こえてしまいました。「小田桐はヨシモトへ行ったほうが向いているんじゃないか」明るい小田桐さんも、これには大ショックでしばらく落ち込んでしまいました。しかし、学科史上初めての22科目再試験という、クラス全員の心配をも受けましたが無事に突破できました。そんなわけで国家試験に備えては、二年の時から勉強を始めました。三年の時、お兄さんの薦めで民主青年同盟に加入、社会の矛盾に目覚めていったのです。そして21歳で入党、翌年一月一七日、阪神大震災が起こり、火災のニュースが飛び込んできました。神戸の実家への電話も不通、やっと連絡がとれましたが「すぐ帰る」という小田桐さんの言葉に両親は「こっちは何とか大丈夫だから、3月22日の国家試験に最善を尽くせ」と説得されました。それから二か月小田桐さんは受験に立ち向かいました。試験の終了したその日、徳島から神戸に向かいました。幸い五階建ての市営住宅は無事で家族とも会えましたが、崩壊した市内の有り様に小田桐さんは呆然としてしまいました。何か医療活動の手助けと思ったのですが、瓦礫の中で水、電気は出ない、器材もない状態で、給食、水配りなどに寝食を忘れて、ボランテイア活動で一週間神戸にいました。その間、両親を始め共産党員の人たちの献身的にボランティア活動をする姿には深く心を打たれました。
 1994年、東葛病院のレントゲン技師として就職、労働組合青年部では原水禁活動、映画「月桃の花」では実行委員長として成功させました。仕事面でも職場の仲間と共に「胃バリウム検査の方法」で学会新人賞を受賞しました。この研究をするなかで、技師として病気の早期発見、早期治療の重要性を深く認識したのでした。

☆ 議員になって
  1998年、小田桐さんは、要請されて市議会議員に立候補、25歳という若さに驚いた市民も、赤ちゃんからお年寄りまで大切にする市政を、福祉と暮らしに力を入れ住みよい流山にと、共産党の政策を実現するために、自転車で走り回る姿に共感して、トップ当選しました。
 議員になってからの小田桐さんは、文字どおり東奔西走、議会でもいねむり議員、質問なし議員と違って全ての議会で質問をしています。常磐新線工事、沿線開発、介護保険、新ごみ焼却場、オオタカ保護などで国会や県交渉に、県会議員や市議団達と21回も行っています。いつも地域を駆け回っている小田桐さんですが、昨年の梅雨どきに近くの小学校に行った帰路、十太夫で常磐新線工事のダンプが、NTTの電柱三本を薙ぎ倒し7本に被害を及ぼした所へいき合いました。早速近くに住むMさんの家に飛び込んで、カメラを借りて写していたら、公団の職員が来て「何でここに小田桐議員が・・」と驚きの声をあげました。ことほどさようにこまめに歩き回っている小田桐さんですが、『市野谷の森』に産業廃棄物が残されていた時、県の報告だけを信じて、産廃を認めなかった環境庁に行きました。その時、(市野谷の森)から持参した瓦礫の固まり(5、6キロ)をバッグから取り出したのには、役人は「こんな大きなものが」と絶句、同行した人達も「重たいものをよく持ってきた・・」とびっくり仰天してしまいました。そして、『市野谷の森』の自然がどんなに素晴らしいものかを説明しました。「小田桐議員の若さとパワーはすごい!」は地域の人達の定評です。

 この四年間で小田桐さんも二歳の女の子、和奏(わかな)ちゃんのお父さんになりました。保育園にお迎えにも行きます。子供達が幸せになることは、和奏も幸せになることだと小田桐さんは思っています。
 戦前戦後の混乱した時代から一生懸命に生きてきたお年寄りが、今大切にされていないことにも、小田桐さんは心から激しい怒りを持っています。巨大な焼却炉の隣りに9億円をかけて、入浴施設を作る予算は、お年寄りの特養ホーム(50床)も建設できるのです。家賃の安い市営住宅を建てることもできるのです。
 毎週火、金曜日、朝7時〜8時まで初石駅と豊四季駅で、市政報告をはじめ国会での共産党の活動、国外情勢をわかりやすく話してきました。四年間に殆ど休んでいません。
 先日とても寒い朝でした。高校生のちょっと茶髪のような、髪を短く刈り上げた一見怖そうな感じの男子が近付いてきて、缶コーヒーを差し出してくれました。一瞬「まさか僕にくれるなんて」と驚きましたが「ありがとう」と言って受け取りました。熱い缶コーヒーは、冷たい手を通して心の中まで温かくなりました。
 こういう青年たちの明るい未来のためにも頑張らなあかんな、マイクを握る手にも一段と力が入る小田桐さんです。今、小田桐さんはもっともっと市議として役に立ちたい、働きたい、そして流山に住んで本当に良かった、流山大好きとみんなが思うような「市」にしたいと二期目を目指して自転車を走らせています。

 「今年は選挙ね。頑張ってください!」「寒いなかご苦労さま」と手を差し伸べる人たちもいます。
 「よろしくお願いいたします。頑張ります!」 挨拶をくり返す小田桐さんの言葉にも力がこもります。
 八年前に職場結婚した小田桐さんは、六歳の和奏(わかな)ちゃんのお父さんでもあります。赤ちゃんの頃は少しアトピーがあって心配でしたが、自然志向であった奥さんの朋子さんと力をあわせて、食生活などを改善した今ではほとんどなくなりました。今は、何でも食べる、お父さんに似たまあるい目をした元気な女の子になりました。
 小田桐さんの独身時代には忙しさもあって、カップらーめん、マクドナルド、コーラをよく食べたり飲んだりしていたものですが、結婚後は朋子さんの影響で食の大切さに気づいていきました。そのなかで、日本の農業、そして地域の野菜作りをしている農家や、地域の商店にも目を向けるようになったのです。

 二十三時半から二十四時半までの新年の挨拶を終えると、小田桐さんは初詣の人たちの列に加わりました。大切な家族の健康、そして自分も、みんなのために今年も元気に働けますように、四月の統一地方選挙で、三期目を目指して頑張る決意を祈願しました。

 議員になってこの八年間、福祉、ごみ焼却場、おおたかの森開発、初石駅改善、サラ金、乳幼児問題など、あらゆることに取り組んできました。市民からの相談があれば、すぐに愛用の自転車に飛び乗って駆けつけます。しかし、なんといっても若いお父さん議員です。子育ての分野では小田桐さんの右に出る議員はいません。この八年間で、三、六、九、十二月と開かれる市議会には、毎回欠かすことなく、三十二回の質問をしました。そのなかで、二十五回が子どもに関することです。この子育て支援は小田桐さんがダントツです。
 「和奏がいるから、親の気持ちが共有‖できるんですよね」「和奏と一緒に、議員としても成長してきたんやなー」と、小田桐さんもいつも思います。

★「医療費助成を良くして」
=この声を掲げて続けて

 「東京では六歳まで医療費は無料なのに、なぜ流山では二歳までなの?」。乳幼児を抱えるお母さんをはじめ、市民の声が高まっていくなか、平成十八年八月から、六歳までの医療費助成制度が始まりました。これが市議会で決議された時、小田桐さんは本当に嬉しくて、思わず「やったー!」と、両手を握り締めて叫びました。
 これは、お母さんたちや市民の粘り強い陳情、請願、そして日本共産党との共同の貴重な成果です。
 前市長時代も、井崎市長も「年齢の拡充はやらない」「予算はない」という姿勢でした。医師会の調整も有るからと言われた小田桐さんは、市内の小児科医を訪問し、懇談を重ねました。また「拡充した場合の試算」を市に示しました。こうした粘り強い活動は、先輩の共産党議員の吉野幸子さんや、妹尾七重さんの長い子育て支援の歴史があったからこそできたことでした。
 乳幼児医療費助成の歴史は、今は亡き吉野幸子元市議会議員時代、国民健康保険0歳児無料制度が始まりました。
 その後、新日本婦人の会の署名運動、対市交渉などの活動と共同して、償還払い制度の受付を地域の出張所でも申請できるようになりました。平成十七年度からは、県全体での運動が広がって、現物給付制度への改善が計られました。その時、流山市は独自で実施していた三歳までの医療費助成制度を二歳まで引きさげるという議案が出されました。この議案に反対したのは共産党だけ。ほかの党は賛成にまわり、子育てをしている若いお母さんたちの願いは踏みにじられて、決議されてしまいました。

 また前市長は、余熱で湯を沸かし、日本庭園をつくって9億円の“お風呂計画”を提案。共産党以外の政党・会派からは「キヨスクのようなものも必要だ」、「東京から老舗料理店を持って来てはどうか」とさらに豪華にするような発言も聞かれました。
 四年前の選挙で大きな争点になるなか、誕生した井崎市長は、共産党の提案も受け、一旦計画を凍結しましたが、新たに6億円の天然温泉計画を提案したのです。この反対の先頭に立ったのが小田桐さんでした。自転車にのぼりを立てハンドマイクで、市民に訴えて歩きました。
 『ストップ・ザ・入浴施設の会』などの自発的な市民らが署名を広げ、計画の再検討を迫りました。市長が進める入札がうまくいかなかったこともあり、計画が見直され、3億円の現施設へと縮小されたのです。
 国の施策は弱いものいじめです。初めてサラ金で悩んでいる人から相談がありました。すぐ、駆けつけましたが本人が不在で会えなかったので、手紙を置いて帰ってきました。しかし、小田桐さんの声は届かずに、その夜、その人は自殺をしてしまったことが、後日ご両親から連絡がありました。このことは、小田桐さんにとって大変なショックでした。
 党の人たちとも相談し、商業者、土建組合、税理士、弁護士、市民の人たちと一緒に「れんげ道場」を立ち上げました。毎月二回の相談会を開いて、もう九年目になります。四百件以上の問題を解決してきました。
 時には、「ヤミ金融が夜中、家にくると言っている」との連絡が。すぐ駆けつけると、玄関には黒マジックで「金返せ」と大きくかきなぐってあります。現場を写真に撮り、柏警察に交渉しました。被害届けを認めさせて、闇業者に対して指導をするように求めました。
 あるとき、暴力団と対決をしたこともあります。こちらは被害者と「れんげ道場」の人と小田桐さんです。大勢人がいる初石駅で会うことにしました。
 「大丈夫ですか?」心配する相談者ですが、「大丈夫。弱みを見せないようにしましょう」。
 でも、笑っている自分の顔は、多分引きつっていただろうと小田桐さんは思っていました。
 やがて黒い服に金色の首輪、サングラスをかけた、みるからに暴力団とわかる柄の悪い、体の大きな人がやってきました。腕時計は宝石が光る高級ロレックスをはめています。
 「警察があいている時間までに終わらせましょう。違法な貸金業は認められていないでしょう。取引はなかったことでいいですね」と迫る小田桐さん。恐ろしさに、暴力団の顔を見ることができずに、黙ってうつむいている被害者。その顔を、下からにらみつける暴力団に、小田桐さんはたたみつけるように言葉を発しました。
 「払いすぎているのになお取り立てるの?完済証明書をここで書かなかったら、警察に行きますよ」 気迫ある小田桐さんの態度に、暴力団は観念したのか、駅前の売店の段差に腰をかけ、完済証明書を書きました。
 「覚えとけよ!」 捨てぜりふを残して帰っていきました。
 「ふーっ」大きな吐息と共に、肩から力が抜けていきましたが、まだ震えがとまらない足を抑えた小田桐さんでした。
 市内の学童クラブは、いま入所者の希望が高まる一方で、公設民営{施設は市で建設し、運営は父母会や運営委員会が行うもので、流山市特有のもの}の結果、劣悪な状況のなかで指導者、父母たちの努力で運営が守られています。 あるとき学童保育から、新設を求める陳情が出されました。35人の学童が一教室(62平方メートル)で過ごすため、狭く、また防犯上の問題もあり、改善を要望していました。 しかし、国基準が一人当たり1・67平方メートルで、「基準は満たしている」とし、市として保護者らの声に応えようとしませんでした。
 小田桐さんは、現地に足を運び、独自に調べました。壁には、びっしりとロッカーや棚が並んでいます。また指導員の事務スペースもありました。それらを除き、児童が自由に使える空間で計算すると、児童一人当たりのスペースは、なんと1平方メートルしかありません。畳もなく、子どもの調子が悪い時に休む場所がありません。
 「子どもが具合の悪い時、疲れている時はどこで休むのですか?」小田桐さんの質問に、指導員は、床に置いてあるプラスチックのおもちゃの家を指差し、「あそこで横になっている」とのことでした。あまりにもひどい状況でした。
 「まず、真っ先に子どもの安全と、環境を考えるのが行政でしょう。どないなってるんですか」、「現場をきちんと見たんですか」小田桐さんは、ときどき神戸弁が出てきます。その迫力に押されて、教育民生委員会として異例の現場視察まで行いました。ここでも論戦をリード。増設されました。
 後日、増設された学童クラブの内容を視察をした小田桐さんに、子どもたちが「誰?」と聞くと、保護者が「この人ががんばって増設してくれたのよ。本当にありがたかった」と紹介してくれたのです。平成18年には、県でも運営基準づくりが開始され、ガイドライン案も作成されました。
 小田桐さんは、よく、仲間の共産党議員から「議会ではそう熱くならないで。心を静めて」といわれます。行政の言い訳を見逃さず、前向きに動かすためには、情熱と冷静さをうまく使いこなすことが政治の世界では求められるからでしょう。それでも小田桐さんはついつい熱くなっちゃう。それも “若さ”というものでしょう。
 でも、小児ぜんそくの医療費助成の大幅削減、障害児の療育制度のカットなど、子どもを泣かせる政治には、目を真っ赤にして怒るような、情熱と行動力を持った議員さんが一人でもいないと、市議会も市政も、どうなってしまうのでしょうか。
 私たちは、子どもたちの安全と、良い環境のなかで過ごさせることを、まず頭に入れて行政をやって欲しいだけなのです。次代を担う子どもたちを大事にしなければいけません。
 「住民の要求が行政に反映され実現できた時、みんなと一緒に喜び合えるーこのことが、議員になって一番嬉しいことだなあ」と、小田桐さんはいつも思います。
 おおたかの森駅の周辺開発については、小田桐さんも『住みよい流山をつくる会』の人たちとずっと運動をしてきました。駅前の一等地にサクラの木に囲まれた小学校があります。まだ、二十年しか経っていない市内で四番目に新しい小学校です。地域の人たちが子どもたちのために、みんなで小さな木を植えたりして、大切に育ててきた思い出の深い学校です。
 この小山小学校が壊されて、霊園の墓地を移転した跡へ持っていくことになりました。霊園では今、墓地を掘って移転の準備をしています。市は一等地に小学校を置いておきたくありません。もったいないのです。高級マンションを建ててもらったり、企業が来て欲しいのでしょう。
 なかには、「企業が来れば市は儲かるでしょう」と考える人もいるでしょう。とんでもない。大手企業が市内へ進出すれば、五年間も固定資産税の免除をします。本社が東京であれば、利益は市には入りません。市民は高い税金に、また上乗せさせられ、払っていくことになるのです。それなのに、なぜ樹木の多い、地域の人たちに愛されている小学校を、墓地の跡に新築するのでしょうか。子どもたちだって嫌でしょう。新築にも市民の税金です。市内の一番よい場所に小学校があるなんて、自慢ができることだと思いませんか。小田桐さんはそう考えます。
 流山市というのは、都心から近くて緑も多く、子どもや高齢者を大切にする町、だから市民もとても住みよい町だそうよ。と全国の人が憧れるそんな町にしたいなー。

 みなさん!
 また議会で小田桐たかしさんを働かせてくださるように、どうぞ応援をしてくださいね。和奏ちゃんも今年、小学校一年生になります。
「和奏と一緒に僕も頑張るぞ!」小田桐さんは、今日も自転車で走りまわっています。

小田桐たかし物語1999

 2月の風が強い午後、和奏ちゃんが通う八木北小学校で授業参観が行われました。「産んでくれてありがとう」「二重飛びが一杯できた」…10歳の子どもたちの話に涙腺が緩みます。成長を続ける子どもたち、クラスの団結、全力で寄りそう先生や親御さん、日々の積み重ねの大事さ、少人数学級だからこそ担える教育環境を実感します。同時に、学校に増え続ける非正規雇用の現実が子どもにも先生にも学校にも突きつけられています。政治の役割に、心をたぎらせる小田桐さん。さぁ4期目にチャレンジです。

 小田桐たかしさんは1973年に神戸の市営住宅で生まれました。お父さんは日本共産党の専従職員、お母さんは町の医院で事務の仕事をして家計を助けていました。冬でも半袖半ズボンで走り回る元気っ子。幼少時代からの大好物がお母さんの作る「いかなご」の佃煮。というより、経済的な理由もあり、おかずはいつも「いかなご」しかなかったと笑って話します。今まで一度も骨折したことがないと感謝も忘れません。
中学生になった小田桐さんは風紀委員長に推薦されて、毎朝校門の前に立ちました。大変厳しい校則で男子は丸坊主でしたし、先生の点検も時々あるので、ツッパリの子達にもそっと教えてあげます。朝の駅頭宣伝を12年間欠かさず続けてきた体力や、外見だけで決め付けない心をつちかったのでしょうか。

 高校合格発表の日、お父さんが心筋梗塞で倒れ、半年間、生死の境をさまよいました。みんなの支えで回復しましたが、お母さんが今度は腎臓を傷め、透析をすることに。真面目に生きているのに、どうして?…そんな思いが広がります。
 阪神淡路大震災も小田桐さんの人生を大きく変えます。やっと連絡がとれた小田桐さんに、ご両親は「こっちは大丈夫。国家試験に最善を尽くせ」と話されたそうです。二か月後、試験の終了した日に徳島から神戸に向かいました。瓦礫のなか、水もないなか活動するボランティア活動に感銘を受けるとともに、ご両親の言葉の真意を悟ります。また診療再開を優先する神戸市内の病院では就職できず、「東葛病院に拾われた」と話す小田桐さんですが、人生の転機が続きます。
 レントゲン技師として、仕事面でも充実していましたが、費用を気にして脳腫瘍検査をためらう患者さんたちの姿に胸を痛めてきました。「一度挑戦したら」との働きかけに応じ、25歳で市議選立候補を決意。前市長にも現市長にも市民の願いをまっすぐ届けます。その姿に、「人をめったに褒めない議員が「よく勉強してる」と評価している」「私の分まで質問してよ」と市職員や保守系議員から声がかかります。市長を応援しているという人からも「寝ている議員は追い出すべきだ。あんたがもっとがんばらなきゃ」と叱咤激励を受けます。
 それから12年。子どもの成長と家族の幸せ、そして市民の願い実現に奮闘の日々です。小田桐さんの事務所開きでは「何度も死のうと思っていたけど、救ってくれた」と応援する声が聞かれます。初石駅ではトイレが水洗化され、エレベーターが設置されました。駅東口整備案も「検討できる貴重なご意見」と初めて東武鉄道が回答するほどに。ドンドン成長する小田桐さんですが、「市民の声、一つ一つの相談、家族とのふれあいが自分の血肉になって、他の方の手助けが出来るし、その人の痛みに共感できるんですよ」と話しています。

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